昭和45年11月28日 夜の御理解

 

 今、秋山さんがです、お参りをしてみえて、あそこの前を、あーん、もとここにお参りしておられた関さん達が、あの、あそこの前を通ったら、何か急に寄りたいと思って寄らせて頂いたら、もうほんとに、あんたんところに御願い行こうかと思いよったと言うてから話させて頂いた。ほんとにもう、いろいろ家の問題とか(とし子?)さんの縁談の問題やらで、えーまあ、自分ひとりではどうにも分からないことがあるから、あー、親先生に御届けをしてくれんかと言うて、あの、御初穂をことづけられたというのを聞かして頂いて、今合楽では、こうして信心の宝と言ったら、もうほんとその事を自分の心にかかり通しかかっとるけれども。えー、家の借金払いが済んで、それから、とし子が用事に戻ったら、また元の前通りにお参りさして頂きたいと、こう言われたという。
 ほんとにお互い信心の(きりく?)を、まあ、関さんの場合でも長い間ずれたんですけれども。うーん、ほんとに肝心なことが、あの、分かっておられないということですね。えー、ほんとにあの、これこれの事が出来たらお参りが出来る、お参りをすると、いったような、うーん、信心ではなくて、えー、ほんとにいわば、昨日の御理解頂くね、もう命そのものが信心を求めて止まない。いや、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かないのだという、その思い込みというものがね、出来たら、うーん、拝ましてもらわなければ信心はさして頂かなければおられんのでしょうけれども。ほんとに、あれほど長い間熱心に、いわば熱烈に信心しておられたけれども、そこんところが分かっておられなかったという事ですね。
 なら、あれだけの熱烈な信心がどこにおいてあったかというと、やっぱりその、おかげということにあったとですね。ですからほんとに、私共が日々反省さして頂かなければならないことは、ほんとに私の命が合楽に向かっておるのか、私の、おー、命が信心を求めておるのかということを、おー、確かめてそういう反省がいるのじゃないのでしょうかね。うん。
 ほんとに、何かそこにおかげを頂けねばならん、これだけのことをどうでもこうでもいう願いのもとに、信心は続けられておるとすると、それ何かの場合に、すぐ信心を止めてしまうといったような結果になる。まあ、合楽始まってそういう人達が、まあ、幾らもある。あれほど熱心に、あれほど有り難いと言うておられたのが、うーん、どうしてあんなに止められるだろうかというのは、結局命が信心を求めていなかったということ。この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという思い込みが出来ていなかったことを改めて、こう、反省してみなければいけないということですね。 
 今日、私はもう、今晩皆さんに一口、御理解何を聞かせて聞いて頂こうかと思わして頂いたら、今日ここに新聞がまいっておりますという、「自己を反省して」という見出しがついとった。だから自己を反省するといったようなことは、まあここでは繰り返し頂いておりますよね。けれども、私は、昨日も私が申しましたように、ほんとに命が信心を求めておるかどうかということを日々反省してみなければいけないですね。   どうぞ。
                              入力者  末永 清和